ナイチンゲールの生地フィレンツェと名前の由来



フィレンツェの重要な歴史的建造物サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂から、南東800mのところに位置するサンタ・クローチェ聖堂(Basilica di Santa Croce)は、フランシスコ会の主要な教会として知られ、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂と同様にこの街にとっては不可欠な存在となっています。

なぜならサンタ・クローチェ聖堂はメディチ家の菩提寺であり、別名“イタリアの栄光のパンテオン”と呼ばれ、ミケランジェロ、ガリレオ・ガリレイ、マキャヴェッリ、ジョヴァンニ・ジェンティーレ、ロッシーニといった誉れある偉大なフィレンツェ人を埋葬・追悼する場所となっているからです。もちろん、内部には彼らを祀った墓所が並んでいますが、いずれも荘厳で重厚な構え。生前の栄光を今に伝えるための格調高い装いで私たちを迎えてくれます。

その中でも注目したいのがフローレンス・ナイチンゲール追悼の記念碑です。その碑は1453年、ブルネレスキにより完成した回廊に飾られているのですが、なぜ彼女の記念碑が聖堂にあるのか、ご存知の方は少ないかもしれませんね。

その理由を彼女の半生の記録と共に下記に簡単にまとめましたので、ご覧ください。

☆フローレンス・ナイチンゲールFlorence Nightingale☆

フローレンス・ナイチンゲール(1820年5月12日~1910年8月13日)は、教科書にも出てくることで、皆さま良くご存知かと思いますが、英国の看護師であり、社会起業家、統計学者、看護教育学者など、いくつもの肩書を持つ才媛でした。

でも、実は彼女は英国で生まれたのではなく、イタリアのフィレンツェの街で1820年5月12日に誕生しています。

というのも裕福な貴族だったフローレンスの両親は、2年間という長期に渡った新婚旅行を企画し、ヨーロッパ各国を歩いていました。そして、その新婚旅行中、妊娠が判明。

当時ですから、妊婦の旅行は胎児に危険が伴います。両親は当時トスカーナ大公国の首都であった芸術の街であるフィレンツェに長期滞在することを決し、初夏を迎えようとする爽やかな季節にナイチンゲールを出産したのです。

そして、フィレンツェでの出産を記念して、生まれてきた我が子の名前をフィレンツェの英語読み“フローレンス”と名づけたのです。

英国に戻った両親はフローレンスをこよなく愛し、出来る限りの教養を身につけさせました。彼女もその愛情に応えるかのように懸命に学び、多くの知識を得ます。

そして、慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、フローレンスはいつしか人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになっていました。

30歳を迎えたある日、両親は大反対でしたが、ドイツに渡りカイゼルスウェルト学園に入学します。なぜならそこでは当時数少ない看護師の教育がなされていたからでした。そして、ロンドンに戻り、本格的に看護師としての活動を始めます。

その後、後の著書でフローレンス・ナイチンゲールの名前を世界に知られるようになった1854年のクリミア戦争(史上まれに見る凄惨で愚かな戦いとして知られていますね)に従軍看護婦として参加を希望し、フローレンスはシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院のあるスクタリに向かいます。

でも、当時は看護師の仕事は病人の世話をする単なる召使として見られていたことで、戦場という現場に入ることを拒まれ、看護の仕事も断られます。でも、そんな彼女の行動をしっかり見ていた人がいたのです。

そうなのです。あのヴィクトリア女王がナイチンゲールの奉仕活動に敬意を払い、また、看護師としての仕事を認めて味方となったのです。それは戦地の上官たちにとって大きな圧力となり、ナイチンゲールはスクタリ病院の看護師の総責任者として活躍します。

《余談:内戦の完全なる終息はなかったのでしょうか。2014年クリミア危機でロシア連邦がクリミア編入をウクライナ国内法を無視する形で一方的に宣言したことで、両国による領有権をめぐる対立が今も続いていますね》

以来、ナイチンゲールは「クリミアの天使」と呼ばれ、そのことに由来し、看護師を「白衣の天使」と呼ばれるようになりました。

サンタ・クローチェ聖堂は16の礼拝堂を有するフランシスコ会世界最大の教会として誰もが知るところですが、元々は市の城壁の外側にある湿地帯だったここに、12世紀末、フランシスコ会の創設者であるアッシジの修道士フランチェスコの手によって創建されたと伝えられています。

その後、1294年5月、街の有志たちの寄付でアルノルフォ・ディ・カンビオの設計を元にして建設が始められ、1385年、約90年の歳月を経て現在の姿になりました。

とはいうものの、正式に教会としてスタートしたのは、ローマ教皇エウゲニウス4世により献堂式が行われた1442年のことでした。

また、鐘楼は創建当時のものが落雷によって破損したことで、1842年に再建され、ゴシック様式の大理石のファサードも1857年から1863年にかけて、ニッコロ・マタスが改修し、ネオ・ゴシックの壮麗な姿となり今に至ります。

フィレンツェを訪れることがありましたら、是非、聖堂に足を運んで下さい。カトリーヌ・ド・メディシスの家族を含め、メディチ家の一族がここに眠っています。そして、ルネッサンス期の名工たちの作品が一堂に集まっていますから、美術鑑賞のためにも是非。

画像はフィレンツェの街の南に広がるミケランジェロ広場から眺望した花の都フィレンツェです。広場からは大聖堂やシニョーリア広場などが遠望できます。

《註:これら歴史や年代などは各街の観光局サイトやウィキペディア、取材時に入手したその他の資料を参考にさせて頂いています》

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。