イタリア・シチリア島パレルモは名画「ゴッドファーザー」の舞台になった街であり、ドイツを代表する文豪ゲーテを魅了してやまない美しい街です。古代からこの地に多くの人たちが住み、でも、素晴らしい地ゆえに多くのよそ者に侵略をされ続けた街でしたが、その哀しみを乗り越え、彼らがその都度構築した世界は素晴らしく、今、街には多様な文化遺産が点在し、世界に名だたる観光都市として華やかな景観を見せています。
画像はパレルモ旧市街の一角に広がる初夏の午後です。地中海の明るい太陽の恩恵を受けた街には、常にこのような爽やかで優しい情景が広がっています。いつでも誰もがくつろげる温かな今がこうして在ります。
古代に創られたパレルモの街は、2000年余という悠久の時を経ても、その昔と変わらないこうした優しい“いつもの時間”が流れているのです。時には無謀な戦いに明け暮れた街でした。でも、そのような苦しみなどなかったように、“今という時間の流れ”を誇示し、旅人を迎え入れるのです。
この街に立った誰もがその心地よい空気を読み、パレルモに魅了され、長期滞在をしてゆきます。
ゲーテもその一人でした。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)
彼は1749年8月28日ドイツ中部フランクフルト・アム・マインの裕福な家庭に生まれ、2人兄妹で育ちました。教育熱心両親の元で育ったゲーテは、幼い頃から勉学はもちろん、乗馬やダンス、ピアノなどを習わせられて、情操教育を受けたことで、妹と共に幼少時に多彩な才能が培われました。
なかでもゲーテは読書が好きだったことで、文章にもその才能を見せ、8歳のときに書いた祖父母に宛てた詩は、現在でも秀作として残され、注目されています。
また、少年時代すでに英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を習得していたという語学に関しても神童だったのです。
成人してからゲーテはその類稀なる才能をいっそう磨きあげ、詩人、劇作家、小説家、自然科学者、政治家、法律家として活躍し、なかでも小説家としては「若きウェルテルの悩み』」はじめ「イフィゲーニエ」「ファウスト(詩劇)」など幅広い分野で多数の傑作を残してゆきます。
彼の評判は当然ながらドイツ王家にも伝わり、外交などを含めた様々な分野での仕事も司ったゲーテでしたが、名誉ある立場に固執せず、37歳になった1786年、ゲーテはアウグスト公に無期限の休暇を願い出、同年9月にイタリアへと旅立ちます。
父親からイタリアの歴史や芸術の世界の素晴らしさを兼ねてから聞いていたゲーテは、イタリアがいつしか憧れの地となっていたのでしょう、壮年という域に達する前に憧れの地で生活をし、自分を見つめ直し、新しい自分を見出したい。そんな思いで約2年間のイタリアの旅に出たのです。
そして、ローマからナポリを経て、1787年、パレルモに身を託すのでした。
ゲーテはイタリア人らしさに執着し、彼らと同じような格好でイタリア語を流暢に操ってこの地の芸術家たちと交流をしたと伝えられます。
なかでも古代の美術品に興味を抱き、熱心に鑑賞したようですが、それは午後のみ。午前中はドイツを発つときからご無沙汰だった文学活動に励み、1787年1月には「イフィゲーニエ」をこの地で完成させ、さらに『タッソー』『ファウスト断片』なども書き始めます。
シチリアに来て、それまで見えていなかった自分の世界を垣間見たのかもしれません。初秋の午後の穏やかな世界に自分を見つけたのかもしれません。
ティレニア海を前にしたパレルモに、誰もがいつでもくつろげる温かな今がこうして在ることに感じるものがあったのでしょう。
昔と変わらない“いつもの時間”が流れているそのことにこだわったゲーテは、新しい自分を見出し、小説を書き始めたのです。
いつもの優しい風が吹くパレルモの今に身を託してゲーテは書き始めます。
画像はゲーテが愛したパレルモの午後の情景です。
《註:これら歴史や年代、人となりは各街の観光局のサイトやウィキペディア、取材時に入手したその他の資料を参考にさせて頂いています。ご了承くださいませ》
(トラベルライター、作家 市川 昭子)
※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。