画像のイタリア・シチリア島パレルモに建つマッシモ劇場の西、カステルヌオーヴォ広場を前にしてひと際立つこの建物は、1867年から10年ほど掛けて完成したポリテアーマ劇場Teatro Politeamaです。
19世紀半ば、新都市パレルモを建設するにあたり、新市街にふさわしい斬新さと機能性に富んだ新劇場の建設を望んだ街は、主要出資者銀行家チャールズ·ガランと共に1866年、劇場の設計を広く一般から募ります。
その結果、内外から多数の応募がありましたが、ポンペイ建築に着想を得た古典的なデザインでありながら、オリジナリティに富んだジュゼッペ·ダミアーニAlmeydaのデザインが注目され、勝利を掴みます。とは言っても彼のデザインがそのまま採用となったのではなかったのです。
それは応募した作品は野外劇場として設計されていたからです。
ですから、当選後は通常の屋内型劇場に設計し直しをしたばかりではなく、古典的なデザインだけにこだわらず、当時流行していた清新なニュアンスで仕上げる新古典様式も取り入れられて、1867年1月、ようやく工事が開始。
もちろん、そのテコ入れが功を奏し、完成した劇場は今までにない斬新なものとなり、5000人を収容する大劇場として、工事開始から10年余の歳月を経て1874年に完成。多くの賞賛の言葉を手にし、同年6月にオペラ劇場として幕を開けたのです。
杮落しに演奏された曲は、この島のカターニア生まれのヴィンチェンツォ・ベッリーニVincenzo Bellini(1801年11月3日~1835年9月23日)のオペラ『カプレーティとモンテッキ』(初演は1830年ヴェネツィア)でした。
ヴィンチェンツォ・ベッリーニは、父親も祖父も音楽家であったことで、音楽を学ぶ前から作曲を始めたという神童でした。ですから、成人してからの彼の活躍は目に余るほどで、ロッシーニやドニゼッティと共に19世紀前半のイタリアオペラ界を代表する天才として、イタリア国内のみならず、ヨーロッパ中にその名を馳せました。
なかでもショパン、ベルリオーズ、ワーグナーという巨匠たちの彼への賞賛は絶大だったことで、ベッリーニ本人だけではなく、イタリアの人々をも喜ばせたのですが、神様は二物を与えませんでした。
若い頃から慢性の腸疾患に悩まされていた彼は、1835年9月23日、34歳という若さで短い生涯を終えるのです。(上記のショパンも39歳という若さで旅立っていますね)
ヴィンチェンツォ・ベッリーニは当時パリを拠点にして制作活動を行っていたことで、亡骸は一旦はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されましたが、その後、故郷のこのシチリアのカターニアに移され、故郷で永遠の眠りに就きました。
《余談》彼はイタリアが誇る若き天才作曲家でしたから、1985年から1996年まで発行された5000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣に肖像が採用されていました。
『カプレーティとモンテッキ』は、彼が生涯を終える5年前の作品で、皆さまよくご存知の、13世紀のヴェローナを舞台にした名家カプレーティ家とモンテッキ家に生きた若い恋人“ロメオとジュリエット”の悲恋物語です。
彼の音楽には気品があり、聴き手を陶酔させるロマンティックな世界があると定評されるのですが、この作品はその定評そのもの。全編ベッリーニらしい流れるような旋律を特徴とし、深い悲しみを誘います。もちろん、彼の代表作のひとつに数えられています。
★素敵な杮落としでしたから、その折、ヴィンチェンツォ・ベッリーニの姿が刻まれたのでしょう、劇場では憂いある哀しみに包まれた名曲“カプレーティとモンテッキ”と共に彼の面影を偲ぶことができるのです。
《註》=同じように見えて実は異なる文字『果物のかき=柿 「亠」の下に「巾」=5画です』『こけら落としのこけら=杮 「巾」の縦棒上部の出っ張りを長くして「一」を交叉させて書きますのです=4画です』
《註:これら歴史や年代、人となりは各街の観光局のサイトやウィキペディア、取材時に入手したその他の資料を参考にさせて頂いています。ご了承くださいませ》
(トラベルライター、作家 市川 昭子)
※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。