英国のタクシーのルーツは、700年前、テムズ川を走る有料船と伝えられています。市民たちの有料船の利用は長く続きましたが、その後、地上でも移動の手段として馬車が利用されるようになります。その最初が1625年、ハクニーと呼ばれる乗合馬車でした。それが現在のタクシーの起源とし、今に至ります。
ヘンリー7世、ヘンリー8世、そして、エリザベス1世の時代だった15世紀後半から17世紀には、軽騎兵が用いた馬車を乗合馬車に使用したと記録されています。
そして、19世紀から20世紀を迎えるとヨーロッパの都市にこうした馬車が公共の乗り物として登場するようになるのですが、公平で統一的な料金を提示するために、料金メータ(タクソメーター)を装備するようになります。いずれの乗合馬車に付けることが義務になると、それを機に乗合馬車は、タクソメーターをもじってタクシー(taxi)と呼ばれるようになりました。
そして、その後、300年余り馬車タクシーが利用されますが、第二次世界大戦後には自動車の発展で、1947年、ロンドンのタクシーは馬車から自動車に統一され、1948年、オースティンはFX-3をリリースします。
当初は最新鋭の車として名高いオースティンFX-3でしたが、自動車の著しい発展により10年後の1958年、改良したFX-4を投入。ロンドンのタクシーの大半のシェアを誇るという快挙を成すのでした。
もちろん、FX-4を投入した会社は他社の車より大きさといい、乗り心地といい、抜群の良さを自負していましたし、それは自負だけではなく、誰もが認めることでしたから、1989年にはロンドンのタクシーのすべてが新型FX-4となり、当時を風靡したのです。
画像は40年にわたりロンドンタクシーとして親しまれている「ブラックキャブ・タクシー」オースチンFX-4です。屋根の高い車体は山高帽をかぶったままでの乗降と着座が可能ということを特徴とし、広い車内は車椅子のままの乗車もできるという素晴らしい構造を誇ります。
ロンドンの風物詩でもある赤い2階建てバスと並ぶこの「ブラックキャブ・タクシー」は、FX-3の最初の頃には、黒塗装のものしかなかったために「Black Cab」が通称となり、現在もそう呼ばれることが多いのですが、新型車に変わってからは、赤、青、黄など様々な色のものも見られます。
そして、ロンドン市内を走るブラック・キャブのその総数は2万台以上という数の多さを誇りますが、ロンドンのタクシーの誇りはそれだけではありません。
タクシーを運転するドライバーはステイタスになるくらい、職業としては崇められているのです。
なぜ崇められるのか。それはロンドンのタクシードライバーは、かなり厳しい試験を通らなければ、なれない職業だからです。
聞くところによれば、試験問題は首都高速環状線の内側に設定された400のルートを暗記しなければならなく、しかもマンツーマンでの試験。目の前に座る試験官が現在地と目的地を告げ、受験者は目的地までの道路名を次々と正しく答えなければならないこと。そのため、受験者は1万以上の道路と数千の建物を覚えなければ、合格には至らないというのです。
ですから、現役の大半のドライバーは、お客さんが住所を示すだけで、目的地へ直行できるのです。
とはいうものの。実は私は数度、提示した住所だけでは直行できす、迷よわされた経験があります。
それは目的地が街の中心部でなかった場合と、有名なポイントはあまりなく、友人の住む小さなアパートだったこと。また、あるときには、名も知れぬ小さな公園の奥に建つ小さな教会であったりしたからです。もちろん、ドライバーとて人間です。忘れることも迷うことも当然あっていいのです。
でも、彼らはやはり立派でした。
タクシードライバーという仕事にプライドを持っていました。ですから、少しでも道を迷い始めると必ずメーターを倒すのです。もちろん、その理由を後部座席に座る私に断ってのことです。
そして、中には目的地に到着して料金を払おうとした私の手を遮って、料金を受け取らないドライバーがいました。そのとき彼はこう言ったのです。
「本来なら1時間前にここに着いて当然なのですが、私が迷ったばかりに、あなたは仕事の約束を反故しなければいけなくなったのです。ですから、料金を頂く訳にはゆきません。本当に申し訳ないと思います」
私も仕事ならもっと時間に余裕をもって出掛けるべきでしたし、地下鉄を最大限に使って、タクシー利用区間を最小限にすべきだったのです。そう言ったのですが、彼は頑として聞く耳を持たずに去ってゆきました。
今でもその時の感動は鮮明に脳裏に焼き付いています。
(トラベルライター、作家 市川 昭子)
※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。