アイルランドは寒冷な上、岩と石塊に覆われた不毛の地が多く、その地で育成できる農作物は小麦のみ。それも毎年不作が多く、収穫量は少なかったのです。
でも、新大陸から入ってきたジャガイモは、寒さに強く、栄養の乏しい貧しい土地でもそれなりに育つ特性があることで歓迎され、18世紀にはアイルランド庶民の食卓には小麦のパンに代わり、ジャガイモが主食として常にありました。
もちろん、小麦よりも栄養価の高いジャガイモですから、庶民の健康は十分保たれ、いずれの町も村も活気ある日々を送っていました。また、19世紀にはその噂を耳にして、他所からやって来た移住者でにぎわうほど活気を呈していたアイルランドでした。
でも、1845年、ジャガイモの病気が蔓延し、ジャガイモ飢饉が発生してしまうのです。それも5年間という長い間でした。
あの名君と言われたヴィクトリア女王在位中でした。
女王は議会と共にありとあらゆる手を打ち、何とか飢饉を食い止めようとしますが、なす術は見つからず、餓死してゆく人々の数は増えるばかり。その結果、アイルランドは100万人が餓死もしくは栄養失調で病死する、という大変な事に遭遇したのです。
食べるものがなく、目の前で次々と餓死してゆく惨状を5年間も見続けていたアイルランドの人々の多くはそれを惨事と認めざる得ませんでした。ですからすべてを“諦める”しかなったのです。
それは親戚縁者、あるいは友人たちの死を諦めただけではなく、故郷アイルランドも諦めたのです。
それには大きな勇気が必要でしたが、彼らは頑張りました。そして、見切りをつけることを決した彼らは、総勢100万人で新天地を求めて米国やカナダに渡ってゆきました。
100万人の流出という、その数は半端ではありませんでした。また、餓死者100万人でしたから、折角800万人まで増えた人口が、1851年には600万人に減るという惨状だったのです。
このとき米国に移住したアイルランド人のなかにいたのが、のちの大統領、ジョン・F・ケネディの曾祖父にあたるパトリック・ケネディでした。
また、あのウォルトディズニー社を創ったウォルト・ディズニーの曽祖父も、1845年に起きたこのジャガイモ飢饉の折に、米国へ移住した一人だったのです。
でも、彼らは飢餓から脱出はできたものの、米国大陸に渡った当時は貧しく、アイルランド系移民というだけで馬鹿にされました。
そして、「ミッキー」と呼ばれ、後ろ指を指されながらの肩身の狭い生活を余儀なくすることとなったのです。ちなみに“ミッキー”は英語では“とるに足らない・役立たず”などの意味を持ちます。
でも、ケネディ家もディズニー家も、そして、多くのアイルランド系移民たちも食料があるだけでも感謝し、貧しさとその屈辱に耐えながら懸命に日々を生き、徐々に社会的地位を築いていゆきます。
そして、地位も向上した三代目になったその時、ウォルト・ディズニーのリベンジが始まりました。
そうなのです、1930年代に制作し、ヒットを続けていたアニメーションの主人公ネズミのキャラクター名に、長い間、アイルランド系移民を馬鹿にするために呼び続けられていた愛称「ミッキー」を選んだのです。
また、ケネディ一家も負けてはいませんでした。当時のアイルランド系移民は、米国社会で最下層に属し、教育もままならなかったのですが、でも、彼ら一家は勤勉家でしたしプライドの高い一族でしたから、貧しい中でも常に学び賢明に生きました。
ですから、米国社会のなかの一家の存在感は大きく育ち、三代目には他を寄せ付けないほどの力を持つようになっていました。
そして、アイルランド人の地位向上に地道に尽力し、アイルランド人ばかりではなく、黒人も含めた最下層の人々のために、ジョン・F・ケネディの代には、ついに大統領にまで上りつめるのでした。
ジャガイモ飢饉は数えきれない程の犠牲者と引き換えに、ケネディ大統領をこの世に輩出し、夢のファンタジ―世界の主人公である「ミッキーマウス」を誕生させたのです。
ヴィクトリア女王の在位中に起きた不幸な事件が、このような形でしっかりと今につながっています。それも逃避行した先で、アイルランド人の誇り高い生き様が、リベンジというバネを利用して見事に育ち、こうして社会に華麗に羽ばたいているのです。
画像は1871年3月29日に開場したヴィクトリア女王の最愛なる夫アルバート公に捧げられた演劇場ロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall of Arts and Sciences)です。
(トラベルライター、作家 市川 昭子)
※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。